LGBTは生産性がないという発言で有名な杉田水脈議員が、また話題になっていますね。
杉田議員の記事全部を読むと、個人的にはそこまで悪質なことを言っているとは感じませんでした。
当該記事の全文を載せている方がいたのでリンクを貼っておきます。
あの発言は少子化問題に焦点を当てたものでした。
その点では、LGBTは子どもを生めないから生産性がないというのは事実だと思います。
子どもを生めない女性が、子どもを生める女性と比べて生産性がないことと同じです。
ただ、全文を読んでいないまま「生産性がない」とだけ聞かされたら否定的な感じがするし、不快になりますよね。
僕も望んでゲイになったわけではないですし、持てるものなら子どもを持ちたいです。
杉田議員を擁護する人と批判する人が生まれるのは、このように1つの発言に対する見方が違うからだと思います。
擁護する人は事実をベースに発言を見ています。
批判する人は道徳や正義をベースに杉田議員を批判しています。
お互いの考えの軸となっているものが違っており、それぞれの見方ではどちらも正しいです。
そのため議論はずっと平行線のままです。
今回はそこから一歩踏み込んだ、LGBTの存在についての生物学的な見方をしてみたいと思います。
なぜ生産性のないLGBTが存在しているのかという疑問を解くヒントになるかもしれません。
なぜLGBTは自然淘汰されなかったのか
まず、なぜLGBTが存在するのかについて考えていきたいと思います。
ダーウィンの進化論によれば、生物は生存に有利な形質が残り、不利な形質は淘汰されていきます。
では、子を残さないLGBTはなぜ淘汰されなかったのでしょうか。
神様のいたずらでしょうか?
そうではないでしょうね。
LGBTの形質が淘汰されなかったのは、その形質が必要だったからです。
子を残さない形質というのは、人間のLGBTに限った存在ではありません。
たとえばアリやハチは女王しか子を産みません。
自然淘汰説に従えば、女王しか子を産まないのだから、子を産む形質ばかりが残るはずです。
しかし実際には子を産まない働きアリと働きバチばかりが存在しています。
この進化論の矛盾は、ダーウィン自身も認めていました。
血縁選択説
このダーウィン進化論の欠点に対して、「血縁選択」という新しい説を提唱したのがハミルトンという学者です。
血縁選択説についてはWikipediaのページをご参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/血縁選択説
要は、自らの子孫を増やすのではなく、血縁者の繁殖成功を手伝うことで自分に近い遺伝子を残し、群れの生存可能性を高めるという繁殖戦略があるということです。
食糧で考えるとわかりやすいです。
各々の子どもたち全員に少ない食糧を分け与えて全員が餓死するのではなく、子どもを作らない個体が自分の兄弟の子どもたちに食糧を分け与えることで、甥や姪は餓死せずに生き残れるということです。
子を残さないLGBTにこの血縁選択の考えを当てはめるとどうなるでしょうか。
LGBTは敢えて子を残さないことで、自分に似た遺伝子を持つ他の血縁者の子孫を残すのを手伝っている、という説を立てることができます。
甥っ子や姪っ子を可愛がっているゲイの人をよく見てきました。
自分の実感としてもLGBTが種のヘルパーとして存在しているという説はありえると思います。
その他の説
LGBTが存在する理由にはいくつかの説があり、上の例はその1つに過ぎません。
他の調査によると、ゲイの血縁者には子をたくさん産んでいる女性が多いことがわかったそうです。
子孫をたくさん残すために「男好きになる遺伝子」なるものが存在していて、それが男性に遺伝するとゲイになるという面白い説もあります。
なんだか身も蓋もないような気がして、個人的にこの説は好きではないのですが笑
けれどこの説が正しいとしても、「男好きになる遺伝子」は自然淘汰されてこなかったことがわかります。
つまりLGBTの中に存在するこの遺伝子は、種の保存のためには必要なものです。
一見生産性のない無意味な存在であっても、生物である限り生まれてきた理由は必ずあります。
働きアリの法則
アリの話で思い出したのですが、みなさんは「働きアリの法則」というものをご存知でしょうか。
アリのコロニーには、働くアリが2割、普通のアリが6割、働かないアリが2割いるそうです。
面白いのは、働く優秀なアリだけを残したコロニーでも、2割が働くアリ、6割が普通のアリ、2割が働かないアリになってしまうことです。
働かないアリには生産性がありませんが、一定の割合で必ずいることから考えると、コロニーにとって必要な存在であることがわかります。
実はこの働かないアリたちは、他のアリが疲れて休むときに代わりに働き出すそうです。
全部のアリが働いて同時に疲れて休んでしまうとコロニーが回らなくなるため、働かないアリが一定の割合で存在しているそうです。
生産性がなさそうに見えるけれどコミュニティの存続のために必要な存在という点で、LGBTに似ているなと感じました。
杉田議員の提案
話を元に戻しましょう。
上記の考えや説を踏まえた上で、杉田議員の発言を見ていきたいと思います。
メディアには発言全体を取り上げたものが少ないように感じるのですが、実際の発言内容は以下の通りです。
子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
僕はこの発言がもっともだと思ってしまいます。
同性カップルは共働き率が高く、子どももいないので支出が比較的少ないです。
それならば同性カップルたちが納めた税金を、子育て支援に遣う方がヒトという種全体のためになります。
こちらの方が血縁選択説的にも正しいのではないでしょうか。
理想家の方々の中には人間は子ども生むために生きているわけではないという人もいるでしょう。
それは進化論の否定となるため、事実ベースで見ている人とは議論になりません。
道徳家の方々は「生産性がない」ことを否定します。
しかしLGBTはむしろ生産性がないことに存在意義があると僕は考えています。
生産性がないことを否定してしまったら、LGBTを否定するのと同じような気がします。
杉田議員の他の発言
全文を読んだ方はわかると思いますが、個人的には杉田議員はLGBTに関心を持っていて、よく考えている方だと思います。
記事中の発言をいくつか引用したいと思います。
しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
以前秋夜長物語の記事で書いたように、歴史的に日本はLGBTに寛容でした。
元の文化が違うのだから、単に欧米を模倣することは無意味だと僕も思います。
LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
これも本当に同意します。
LGBTは自殺率が高いですが、自殺にまで至る原因というのは社会的な差別にあるのでしょうか。
それよりも、親が理解してくれないこと、好きな人に好きと言えないこと、子を生めないことなどの方が絶望に至る原因だと僕は考えます。
そもそも僕たちの苦悩の大半は、行政の経済支援などで解決できる問題ではないです。
おわりに
僕は生産性がないことには理由があるとずっと思っていました。
そのため、杉田議員の生産性がないという発言に特に怒りが湧いたりはしませんでした。
生産性のないことに意味がある、パラドックス的なこの考えは生きることを楽にしてくれると思います。
『ハリー・ポッター』の原作者であるJ・K・ローリングは、かつて生活保護を受給していたそうです。
人間は休んだり、役割分担をしたりしないとそれこそ生産性のあることができなくなります。
コロナが流行してからというもの、僕たちの生活からは生産性のないものがすっかり排除されました。
無駄だった通勤、無駄だった会議、付き合いで参加する飲み会。
生活に必要のないものが全てなくなりました。
残ったものは最低限の生活と、最低限の人間関係。
この生活、楽しいでしょうか。
僕はこの3年間、生きている実感を得る機会が減ったような気がします。
今まで無意味だと思っていたものが、実は必要なものだったと気づきました。
LGBTだって、きっと生きていることに意味はあるはずです。